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悩める人の心は透き通っている


青空よりも透き通っている




困難を抱えている人の心は


その底に暖流が流れている




目の前の壁を乗り越えようとしている人は


どんなに困難でも闘いをやめてはいけない



必ず日は昇る


強く信じて生きるのです






野口晴哉。

この人の本は、読めばからだの内側から元気が湧いてくる。

それは元気食材を食べて元気が出てくるという種類のものではなく、


からだの内側から(内臓全体から)不思議な元気塊が飛び出してくる


という感じである。

嗚呼、うまく言えないが、


肉体のエネルギーが知性を伴ってやってくるのである。

類いまれな整体の先達。野口晴哉。


Ⅰ.とりあげた本    「風声明語」及び「風声明語2」


                           (野口晴哉・全生社)


Ⅱ.この本の目的 

この本の序には次のように書いてある。

「私はいつも人間の裡の能力を自覚し発揮することを説いている。何のために説くかといえば、ただそうせずにはいられない裡の要求によって、全生の道を説いているのである」という野口晴哉が、折にふれ、思いつくままに書き留めた原稿は、箱根記念館に全て保存されております。この書は昭和37年から50年にかけて、『月刊全生』の「巻頭言」及び、「語録」として掲載したものを纏めたものです。本書を読んで共感されたことを生活の中に活かして戴ければ、編者として、これにすぎる喜びはありません。 
                           (野口昭子 )






この本は、目次構成を考えてもだめ。

大事なことは、読みながらひたすら吸収すること。

そして、必ず自分の側から読むこと。


「風声明語 2」(74頁)の整体指導中伝には、次のように記されている。

                                           *                

1、渇する人には水を与える可し。空腹なる人には飯をすすむる可し。


之、機也。      

茶のぬるき、又熱きも機による也。


相手の機を感じ、之を活かすこと指導の大事也。

気を観ぬは頭の中に、機無き為也。

2、馬鹿野郎という言葉は、使いようによっては人を活かすことある也。されど十回大声で繰り返せば、言っている人が馬鹿野郎に見える也。

度ということ指導技術の中心也。

しかも度は相手の感受性にあって言葉の数に非ざること知るべき也。

3、間ということ、又技を活かす術也。

立て続けに言葉を続けても、相手に伝わるとは限らざる也。

間を会得し、機によって、度の適を得るに非ざれば指導に非ず、


一人合点となる也。

機、度、間、のこと技術とし得るは、息静かなる人のみ。

 *

 機

頭の工夫だけで生きている人は ところどころで とまどいする
そして とまどいしている間に 機は逃げてゆく



機に敏な人も 頭でつかまっている限り しくじることがある
心で感じている人も 感じたまま動けない限り 機は去ってゆく

                                       *             

故障のあるところを、みんな修正してしまえばよいのだと、


整体のことを考えている人もあるが、これは間違いだ。
   *
人体である限り、故障を修正するにも修正する順序がある。


順序を運ぶ“機”がある。


一切の故障を一遍に修正してしまおうと、


初心の人は焦るが、


整体ということは


人体の自然に従って人間を活かす技術であると、


落ち着いて考えるべきだ。


例えば、上の抜粋をどう読むか。

整体を職とする人や整体を志す人は、


その具体的な場面と照らし合わせてこれを読めばいい。

しかし、整体に関わりのない人が、


整体のあれこれを想像しながら読んでも、意味がない。

「自分の経験」や「自分のこれから」や


「自分の今」と照らし合わせながら読み、

良しと思うところを、自分の生活のヒントにしたり、


考え方を見直す契機にしたりするのである。

書物を食らいながらその書物を通過し、


次の書物を食らうのである。

その書物を食らい、その後、捨て去り、


結果として太った自分が次の書物に気を向けるのである。

そのように、断捨離読書を続けていく。

大事なことは、自分に引きつけて読むという姿勢である。

尚、最後に、


「風声明語」二冊のそれぞれの巻末の文章を抜粋して


次に添付しておく。

  *

今、生きているということは、死につつあるということと同じである。

人間は誰も、死ぬといって間違いない。


昔から死ななかった人はいない。

それ故、十年生きたことは、


十年死んだということになる。

しかし、死を見つめて生きてきた者と、


死を見ないように生きてきた者とは、


人生に対する態度が違う。

人の死ぬことを知って生きている者は、


 


いつも人生に誠実である。

人のいつか死ぬことを覚悟して生きる者は、養生の人である。


 


                           

   「風声明語」(164頁)

  *

その時、そのように処し得ることだけが、

能力があるということだ。

その時、そのように処し得る人にだけ、

安心はあるのだ。



   「風声語2」(184頁)


○野口晴哉。


この人の本は、読めばからだの内側から元気が湧いてくる。





 









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